リスクテイカーとは
ビルゲイツさんからのメッセージ
少し昔の話になりますが、ビル・ゲイツさんが1995年に「The Road Ahead(邦題:「ビル・ゲイツ、未来を語る」)」を執筆された時、孫正義に著書を贈ってこられたそうです。その本の表紙の裏にはご自身のサインとメッセージが書かれていたのですが、孫正義はそのメッセージがなによりもすごく嬉しかったと述懐していました。そのメッセージは、リスクについての真髄を短い言葉で見事に表現していて非常に感動的です。
マサ(孫正義の愛称)へ お前は俺と同じくらい偉大なリスクテイカーだな
意訳すると「俺もかなり大きなリスクをとって勝負して大きなリターンを得て成功したけど、お前も俺に勝るとも劣らないくらい大きなリスクをとって成功してきたじゃないか。そのリスクのとりっぷりを同じリスクテイカーとして心から尊敬しているよ」とでもいうような意味だと思います。
起業家・事業家・経営者にとっては、「偉大なリスクテイカー」という表現はその人の凄さを表す最大級の賛辞なんです。リスクをとってチャレンジし、成功して大きなリターンを得るということがどれだけ難しいかということを彼らは熟知しているからこそ、地位や年齢などに関わらず「リスクテイカー」を心から尊敬しているのです。
偉大なリスクテイカーとは、精密な評価と緻密な計算を司る能力、勝敗を分ける流れやタイミングを察知する感性、失敗を恐れずに勝負をしかける勇気や実行力など、様々な能力や精神力、右脳と左脳のバランスをものすごく高いレベルで兼ね備えている人です。そんなのまるでスーパーマンみたいな人のようですが、そうでなくてはほんとうは大きなリスクをとることはできません。そう聞くと、リスクテイカーってものすごくかっこいいと思いませんか。人によっては「リスクテイカー」っていうと、なんか怪しい人っていうイメージがあるかと思いますが、僕の中ではものすごくポジティブでカッコイイイメージなんですよね。
歴史上の人物でいうなら、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長なんかはまさに偉大なるリスクテイカーと言えるでしょうね。最悪の事態としては命を失うかもしれないという最大級のリスクを冒して電撃的な戦いを仕掛け、自分たちより何倍も強大な今川の軍勢を破るという大きなリターンを得たわけですよね。 実際、あの戦いをターニングポイントとして大きく天下布武に向けて動き出すことができたわけで、そう考えると若き織田信長はとんでもなくすさまじいリスクテイカーですよね。だから彼という人物もあの戦いも歴史に輝かしく残っているんですね。
リスクテイカーに対する批判
さて、偉大なリスクテイカーの例を二つほどご紹介しましたが、成功時のリターンと失敗時の被害を分析して、大丈夫、いける、とふんだとしても、それでもリスクをとって新しいことに挑戦するというのはほんとうにたいへんなことです。往々にして新しいことというのはそのときの社会の常識からはみ出していることが多いため、ありとあらゆる様々な批判にさらされて何度も心が折れそうになります。ご存知のとおり、批判を恐れずに困難に立ち向かっていくには相当な勇気が必要です。自己責任で一所懸命やってるのに、なんで関係ない人たちからいわれもない批判を受けなければならないのかと思うでしょう。その人もリスクをとって同じ立場で批判してくるのなら真剣に聞く耳も持ちますが、自分は安全なところにいてなにもしないくせに言いたいことだけ言って批判してる、ということが明らかにわかるときは、きさん、なんば言いよるとや!?(福岡の筑後弁です(笑))と腹を立てたくなることがあります。 たとえ誰かが失敗しても、その挑戦を称えることはあっても、それを批判したり「ほら見ろ」などと揶揄するようなことは僕は絶対したくありません。そんなふうに言うんやったら、お前も実際にやってみい!と言いたい。
僕は人間ができてないので、自分のことに限らず、新しいことにチャレンジしている人がそんなふうに叩かれているのを見るとその人以上に腹をたてることがあるのですが、その点、孫正義は違います。
彼は「たとえどんな言われのない批判であれ、あらゆる批判をしてくれる人は、自分が改善すべき点を指摘してくれているありがたい存在だ。批判にさらされて自分のまずい点に気づき、それを改善できたら前よりもっと良くなるわけで、すべての指摘、すべての批判から目を背けないで全部受け入れて学んでいくようにしてる。」と言っていました。
よく「批判を恐れずチャレンジしろ」とか言われますよね。それって「批判なんか気にせず自分の信じる道を突き進め」というような意味で言われることが多いと思いますが、彼にかかると意味が違います。「批判を全部受け入れて参考にしろ」ですからね(笑)どんだけマゾやねん!ってツッコミを入れたくなります(笑)
こうやってあらためて書いてみると、 いやあ、 彼はすげえなあってあらためて思います。僕はなんだかんだ偉そうにこうやってリスクのことなどを語ってますが、やっぱり批判されるのイヤですもん。ちょっと挑発的なコメントなどをツイートしたりしたら、どんなレスポンスが来るだろうかとドキドキしますからね。とっても小心者(笑)。それに比べ、時々彼のツイッターのmentionを見ると死ぬほどバカとかハゲとか(笑)、偉そうなこと言うのは電波つながるようになってからにしろとか(笑)、様々な罵詈雑言や批判のコメントが来てたりして、それでも至らない点を真剣に反省し、平然と批判を参考にしています。どうやったらそんな強いメンタリティを持てるのだろうって思います。 同じひとりの人間として、 そういう点はほんとうにすごい人だなあと思います。
このような境地に至るためには、そうそうのことではへこたれない強靭な精神力や、何を言われてもあんまり気にしない「鈍感力」、何がなんでも石にかじりついてでも必ず志を実現するという固い信念が必要ですが、これは地位や名誉、お金のあるなしに関係ない、一人の人間としての基礎の問題です。
と、自分で書いておいてなんですが、 僕はこういうことが書いてあると、そりゃあそうだし、そういう力をつけたいのはやまやまだけど、どうやってそういう力を身につければいいのさ?とツッコミを入れたくなるので、ただそういう力が必要という理想論にとどまらず、どうやったらそういう力を身につけられるのかということについて自分の考えを少し書いてみたいと思います。
人事を尽くして天命を待つ
まず、これが大前提だと思うのですが、新しいことにチャレンジしようというときは基本的には「楽観的」でないとだめだと思います。そこがそもそも悲観的だとなにも始まりません。
僕はアーティストやクリエイター、スポーツ選手、起業家などなにか創造的なことをしながら新しいことにチャレンジしている人が大好きでそういう人たちとはとても気が合うんですけど、彼ら彼女たちとおつきあいしていると、そういう人たちに共通する気質として「絶対にあきらめない」粘り強さと意志の固さがあります。彼ら彼女たちだって何度も失敗していますが、倒れてもあきらめずに何度でも立ち上がり、成功するまでとことん挑戦するからこそ最終的に成功しています。ここまでは、まあいろんなところでよく聞く話だと思いますが(以前「失敗について」という回でそのことについての僕の考えを書きましたので興味のある方はお読みください)、ここで僕が強調したいのは、そのあきらめない姿勢の背後には「失敗してもなんとかなるさ。また挑戦すればいいんだから」という、いい意味での楽観的な気持ちがあるということです。 字面だけを見ると、あまり緊張感のない、お気楽な、ともすれば自分に対して甘い感じのように見えるかもしれませんが、しかし彼ら彼女たちにはそういう楽観的なところが必ずあります(実はそれには理由があるのですが、それはこの後読み進めればわかります)。
とはいえ、「楽観的になろう!」といくら掛け声のように唱えたところでなかなかそうはなれませんよね。目の前に厳然と不安があるのに、その不安から目をそらして気が楽になったところでそれはまったく本質的な解決になってないと思いますし、「大丈夫、大丈夫!」と自分に言い聞かせてさえいれば楽観的になれるんだったら世話ないわー、と思ってしまいます。
ではどうすれば楽観的になれるのでしょう。その答えに至る前に、まず自分の心に関して知っておくべきことがあります。それは、
自分に対しては嘘をつけない
ということ。いくら「大丈夫。なんとかなるさ」と自分を思い込ませようと思っても、疑念があって心の底からほんとうに大丈夫だと思ってないものを信じることはできません。他人に対しては、ひょっとしたらごまかしが効くかもしれないけれど、 自分自身は絶対ごまかせません。ではどうすればいいのでしょうか。
ほんとうに心の底から楽観的になるためには、
今挑戦していることに対する準備をとことん突き詰めるしかない
と僕は思います。あらゆるリスク分析をし尽くし、あらゆる対策を講じ、あらゆる努力をし尽くしたときに初めて、「もうこれ以上やれることがないくらい努力した。ここまで努力したのだから、たとえうまくいかなくてもこれが今の自分の限界だと納得がいく。そう思える今自分の心は晴れやかだ。」という境地に至れます。
昔から「人事を尽くして天命を待つ(人間の力としてできる限りのことをして、その結果はただ運命にまかせる、という意味)」と言いますが、まさに人事を尽くすことでしか、最終的には楽観的になることはできないと思うんですよね。
とはいえ、突き詰める作業というのは相当しんどいです。 弱い自分の心に常に向き合わなければならないし、 何をどこまでやれば人事を尽くしたことになるのかなかなかわからないし、時間や経済的な制約などあらゆることを言い訳にしてしまいがちです。それが簡単にできるんだったら苦労はないというか、それがなかなかできないから、私たちは日々苦しみもがいてるわけです。では、どうすればいいのでしょう。
どうやったら人事を尽くすことができるのかという問いは、どうやったら突き詰め続けるモチベーションをキープできるのかと言い換えてもいいと思います。このことについて、僕なりにこれまで長年いろいろと考えてきましたが、それは、やっぱり次のような結論しかないと思います。
自分はなにがしたいのか、自分がやろうとすることの意味はなんなのか、ということを哲学する
結局、楽しいことばかりではない突き詰めるという作業をやり続けるためには、これでしか動機付けはできないと思うんです。こんな不安で苦しい思いをしてまで、やるぞ!と決意する根源的なモチベーションは、「なぜ自分はこのテーマに取り組むのか」というところからしか生まれないと思うんですよね。
どんな偉業を成し遂げた人でも、それを始めたきっかけをおうかがいしてみると、最初は「おもしろそう!」とか「やってみたい!」という単純な動機からということが多いんですが(動機が単純だからといってダメなことはなく、むしろ興味を持ったらやってみるというフットワークの軽さはとっても結構だと思います)、偉大な人たちは、やっていくうちに単におもしろいということに満足せず、より高い目標を持つようになり、その目標を達成するために尋常ならざる努力をし始めます。大きな壁にぶつかって時には悩み、時には憤り、時には心が折れそうになりながら、艱難辛苦(かんなんしんく)の果てに壁を乗り越えていく。そういうプロセスを繰り返していくうちに、なぜ自分はこんな思いをしてまでこれに取り組むのかと自ずと哲学するようになります。そうして当初のおもしろいという単純な動機から自分が実現したい夢や志が生まれ、経験を積んで視野が広がるにつれてその夢や志はさらに高度で高尚なものへとアップグレードしていきます。
自分がやっていることに手応えを感じ、自分に自信がつき、自分がなにをする人間なのかをはっきり自覚し、やがてたとえどんな困難があろうともさらなる高みを目指そうと腹をくくれるようになる。そうやって常に自分の生きる意味を問うことでしかモチベーションは保てないと思うんです。
夢と志の違い
ここで夢や志と言いましたが、実は夢と志は大きく異なります。夢は「将来プロのサッカー選手になってプレミアリーグの試合にスタメンで出場したい」とか「宇宙飛行士になって宇宙を飛びたい」みたいにその人個人が思い描く最高の理想の状態のことを言いますが、一方、「志」という言葉には単なる「夢」とは違うニュアンスが入っていそうです。「志」という言葉から思いつく事例としては例えば、坂本龍馬が幕末に命を賭して薩長連合の説得を計ったことなどいい例だと思いますが、これを「坂本龍馬の夢」というとちょっと違和感があり、「坂本龍馬の志」と言うとしっくりきます。では夢と志の違いっていったいなんなんでしょうか。
結論を言いますと、夢はあくまでも個人的な願望であり、志はそこに社会的な意義を重ねたものを言います。たとえば「将来プロサッカー選手になって活躍したい」という夢を持った少年が、大きくなって実力をつけ、プロサッカー選手としてデビューした後いろいろな経験を積むうちに視野が広がり、最終的に「世界最高峰のリーグで様々なノウハウを学び、それを自国に持ち帰って自国のサッカーのレベルを上げ、貧困にあえぐ多くの子供達に夢と希望を持たせたい」という目標を持つようになったとき、それは個人の願望が社会的な意義を帯びて「志」へと転化しています。つまり、志とは、自分の願望に社会の大義を重ねあわせることによって単なる自分の欲望をなにか実現に値する価値のあるものへと昇華させ、その価値の実現にむけて自分の人生を捧げるというコミットメント(決意表明)なのです。
ちなみに孫家ではよくそれを「究極の自己満足」と言い換えて使います。「自己満足」という言葉には自分さえよければいい、というニュアンスがあって普通は決して良い意味では使われませんが、その自己満足も究極まで突き詰めると、自分さえよければいいというのでは満足できず、自分の愛するまわりの人々もハッピーな方がいいし、もっといえば社会全体がハッピーな方がいいに決まってる、そうじゃないと満足できない、となり、「志とは社会性を帯びた己の夢である」という意味が「自己満足」という言葉のネガティブな意味によって逆説的に非常に際立って浮き上がるため、よく好んで使います。
話を戻すと、自分はなにがしたいのか、自分がやろうとすることの意味はなんなのか、を哲学するということは、自分個人の欲望や願望を明確にしつつ(欲望それそのものは、それが邪悪なものでない限り、否定する必要はないと思います。欲望そのものは自分が生きる原動力でもあるので)、それが社会においてどのような意味・意義を持つのかを考えるということに他なりません。そういう問いを発し続け考え続けることによって初めて、目標の実現のためにすべてを捧げる覚悟が生まれ、 矢折れ刃こぼれ命尽きようともなにがなんでも実現するぞという岩をも穿つ固い信念が生まれるのだと思います。すなわち、
自分の哲学を「志」のレベルまで高めていく
ことによって決意が固まり、腹をくくることができ、自分の生きる道が定まるのです。
論旨をまとめますと、新しいことにチャレンジするためには楽観的でなければならないが、真に楽観的になるためには人事を尽くさなければならず、人事を尽くすことができるようになるためには「自分はなんのために生きるのか」と哲学し続けるしかない。そして、自分の哲学を「志」にまで高めていくことができればそれは揺るぎない信念に変わり、成功するならやるけど成功しないならやらない、というレベルのことではなく自分の人生を生きる意味そのものになっていく、というのが結論です。
ここまでお話をしたことで最終的に言えることは、リスクテイカーとはすなわち、細心の注意を払いながら大胆にリスクをとって大きな志に邁進する人である、ということです。そうやってふりかえってみると、ビル・ゲイツさんが同志(まさに文字通り同じ志を持つ者ですね)である孫正義に「お前は俺と同じくらい偉大なリスクテイカーだな」と賛辞を送り、孫正義がすべての指摘・批判を受け入れて学ぶようにしていると言ったこの二つのエピソードは、いつまでも僕の心の中で燦然と輝き続けることでしょう。
僕もいつか、大きな志の実現のために、たとえ巨大なリスクであってもそれをとる必要がある時には勇気を持って一世一代の大勝負を仕掛けて成功させ、彼らのような偉大なリスクテイカーと同じ次元で話ができるようになれたらと思っています。もちろんそのためにはまだまだ未熟でいろいろな研鑽を積む必要がありますが、腹をくくって挑戦するその覚悟はすでにできあがっています。
みなさんにも誰か一人くらいは尊敬する方がおられると思いますが、その方々もかならずどこか大事な勝負どころでは大きなリスクをとって果敢に挑戦されたはずです。その方々が具体的にどういう状況で、どのようなリスクをとって、どのような勝負を仕掛けたのかを細かく研究してみるといいと思います。そういう偉大なる先人たちの行動を研究することによって私たちはとても多くのことを学べますし、なによりも、その尊敬する方々のことがますます尊敬でき、ますます好きになることができます。
僕にもたくさんそういう方々がいます。めげそうになったときその人のことを思うと胸が熱くなり、また明日からがんばるぜー!と生きる気力が湧いてきます。それこそが心が折れそうになったときの唯一の支えではないかと僕は思っています。